2005-08-13
禺画像]
本日は、「神戸市立小磯記念美術館」に、
「植物画世界の至宝展」という展覧会を見に行ってきました。
(友人のアーバンさんがタダ券を持っているから、と誘ってくれたのです)
英国王立園芸協会(RHS)が所蔵している、
植物の主に水彩画(いわゆるボタニカル・アート)の展覧会です。
1700年代くらいから現代のものまで、かなりたくさんの点数が来ていました。
私も自分の個展に水彩で描いた植物の絵を出しているので、
「ボタニカル・アート」と呼ばれることは、よーくあるのですが。
実は「私のは"いわゆるボタニカル・アート"ではありません」と思ってます。
じゃあその違いは何なの?と聞かれたとき、どう答えるかというと...
まず、描く技術に関しては、基本的には「同じ」です。
でも根本的に違うところは、ある植物を見たときに、
「そこに"何を見いだすか?"」という、描くときの、描き手の「意識」の差異。
外からはすごくわかりにくいのですが、
もし、違いがあるとすれば、ただその1点だけだと思います。
私の絵は、すごく細かいように錯覚されますが、実はとても荒いです。
かなり省略したり、実物とは違う描写になったりしています。
でも、いわゆるボタニカル・アートは、
植物を記録する目的から始まっているので、客観的正確さが求められます。
いわゆるボタニカル・アートの「全部に焦点が合っている」ような、一種独特な感じは、
すべてを、分け隔てなく、正確に、描くという、「決まりごと」から来ています。
勝手に、好きなように描いたら、意味が無くなるんですね。
あと決定的なのは、
「描いて記録する意味の無いものは描かない」のが、いわゆるボタニカル・アート。
腐った芋(笑)とか描きません。
それに対して、
「いわゆるボタニカル・アートではない植物画」を描く人は、
好きな部分だけを選んで熱心に描いたり、いらないところを省略したりすることで、
その人固有のものの見方や、感じ方を、表現します。
今日の展覧会では、故・小磯良平さんが描かれた植物画も展示されていましたが、
小磯さんの絵は、いわゆるボタニカル・アートではありませんでした。
もうひとつ。
いわゆるボタニカル・アートには、紙の中に「余白」はあるけれど、
「空間」というものが無い、と思いました。
あの「のっぺり」とした独特の感じは、画面の中の「空間」の無さから来る気がします。
紙やキャンバスといった支持体は、「空間」という「世界」を立ち上げるための器です。
「表現」することは、「世界」を立ち上げることです。
「世界」が有ると無いとでは、見かけは似ていても、まったくの別物です。
私の描いたものが「これって、ボタニカル・アートですよね!」と言われているうちは、
まだまだダメだな、と思ってしまいました。。。(^_^;
だって、自分のやろうとしていることが、出来てないということだから。
技法的にはまったく同じと言って良いし、見かけも似ているのに、全然違う...
「意識」の持ち様は、表現する人個々の根元だと思いました。
(そんな当たり前のこと、今さら言うなよって?わはは...苦笑)
やあ、でも、こんなにたくさんのボタニカル・アートを、
こんなにゆっくりと見たのは初めてだったので、とても面白かったです!!
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